2010年04月の日記

奇妙な光景
2010.4.28[Wed]
ファミレスにご飯を食べに行ったら、4人掛けの席でご飯を食べていた学生らしき女の子の一団が、全員携帯電話をいじっていました。お互いに会話はほとんどなくて、ただひたすら、携帯電話をカチカチカチカチ。
目の前に、生身の人間――――というのも変な話ですが、会話が出来る相手がいるのにもかかわらず、携帯電話をカチカチカチカチ。

別にこれ、ファミレスに限った話ではなく、学生の一団に限った話でもなく、電車の中でも、恋人っぽい男女ででも、たまに見かける光景です。
もっとも、大抵はずっと携帯をいじっているわけではなく、ある程度経ったら携帯をしまって、普通に会話をすることもあるのですが、中には、ずっと携帯をいじっている場合もあるような気がします(ずっと観察しているわけでもないので、あくまでも、そういう人達もいたような気がする、程度ですが)

自分は、相手(連れ)がいる、いないという状況に限らず、そういった場所で携帯電話を開くことは稀ですし、そもそも携帯電話を家に忘れても困らないタイプですが、前述のような光景を、よく見かけるようになったのはいつの頃からなのでしょうか。

携帯電話が便利になって、電車の中で本を読む人と同じぐらい、携帯電話をいじる人を見かけるようになったのは、わりと前からだったような気もするのですが、あきらかに行動を共にしている数人の集団が、それぞれの間に会話なく、携帯をいじっている、という光景を目にするようになったのは、ここ最近のような気がします。

すぐそばに、声で会話できる相手がいるのに、携帯電話の小さな画面の中にあるネットの世界へ。
ネットと現実のボーダーラインが希薄になっている……ということなのかもしれないな、と思う事もありますが、発展していくネットと接してきた世代と、生まれた頃からある程度整ったネットがあった世代とでは、そもそも何かが違うのかもしれません。

これから先、ipadのようなネット端末と呼べる代物がどんどんと発売、進化していって、ツイッターのようなコミュニケーションツールがどんどんと便利になっていったとしたら、どうなってしまうんだろう、と思う事もありますが、実際にどうなるかは私に分かるはずもなく。

とはいえ、これから先、電車に乗ったとき、静まりかえった電車のなかで、ほとんどの人が携帯電話やそれに準じたデバイスをずっといじっているような、そんな世界がくるのかもしれません。

わたしがツイッターをやらない理由のひとつが、なんかそのへんにあるんじゃないかなぁとか思ったりもするけれど、おそらくそんなのは考えすぎなだけで、面倒くさがりなだけなんでしょう。

料理は愛情
2010.4.21[Wed]
先日、知り合いと手料理について話す事があったのですが、その中で、

「料理は愛情っていうけど、実際は好きな相手に食べてもらうと思えば手間暇を惜しむことはないし、料理なんて手間をかけたほうが基本的には美味しくなるものなんだから、それが料理は愛情って言葉の意味するところだと思う」

という言葉をいただき、ははぁなるほど、と思いました。
手間暇をかければ絶対に美味しくなる、という保証はありませんが、少なくとも、同じ料理を同じように作った場合、そこに味の差が出るとすれば、それはいかに手間をかけたか、という部分は大きいもの。
料理は台所に立つ前からはじまってる――――なんて、けして大げさなことではなく、材料が勝手にやってこない以上、まずは買い出しをしなくてはいけませんし、やったことのない料理ならば、その作り方を調べる所から始めなくてはいけない。

心づくし、という言葉もありますが、美味しい物を食べてもらいたいという気持ちが、その出来映えを左右するのは、ある意味では当たり前のことなのかもしれません。

相手の喜ぶ顔が見たい、というのは、どんなことにおいてもとてもとても大切な原動力です。
喜んでもらいたいから、と、褒めてもらいたいから、は似ているようで違うことに気がついたのは、いつのころだったかな。

世界樹の迷宮3とデモンズソウル
2010.4.14[Wed]
発売の三日前ぐらいになってから、ふと思い立つような形で「世界樹の迷宮3を買おうかな」と思ったのは、同シリーズの音楽を子供の頃から大好きな古代祐三さんが担当しているから、というのも大きな理由のひとつではありましたが、やっぱり「自分で名前をつけられるゲームが好きだから」というのが大きなウェイトを占める部分でありました。
そんなこんなで発売日から少しずつ進めていた世界樹の迷宮3をクリアしたのが数日前で(してからがある意味本番なんですが)最近のゲームではよくある、いわゆる「隠しボス」なんてな存在にズタボロにやられたあとで「これに勝つにはどうしすればいいのか」と考えて試行錯誤。

この試行錯誤、個人的にゲームを遊ぶ上でとても大切な要素です。

見出し部分に並べた、もう一つのゲーム「デモンズソウル」
こちらも所有していて、少しずつ遊んではいるのですが、デモンズソウルというゲーム、難しいと評判のゲームで、実際、ゲーム内で容赦なく牙を剥いてきます。キシャー。
慎重に歩いていたら落とし穴に落ちてみたり、3回連続前方から矢が飛んでくるトラップだったので警戒していたら後ろから矢が飛んできて死んでみたり。

以前、ゲーム内のキャラクターが経験を積み重ねることでレベルアップして強くなる、いわゆるRPG系統のゲームと、プレイヤー側が失敗を繰り返して経験を積み重ねて上達するゲーム、主にアクションやレースゲームについて、ここで書いたような記憶があります。
それでいうと、世界樹の迷宮3はやや前者、デモンズソウルはやや後者、ということになるでしょうか。

とはいえ、世界樹の迷宮3に関しては「レベルをあげたからなんでもかんでも勝てる」というわけではなく、敵の特徴を掴んだ上で、こいつにはこうすればいい、という戦略を組み立てなくてはなりません。ドラクエでいう「たたかう」を連打していては、おそらく冒頭部分で全滅してしまうゲームです。

試行錯誤、というのは、そういう「ゲーム内における障害をいかに打開するか」という方法を模索している状況なわけですが、この試行錯誤にかかる時間というのは、ゲームによってまちまちです。

デモンズソウルでいえば、同じ場所で死ぬ場合、武器の相性がよくないのか、それとも戦い方が間違っているのか、という事をひとつひとつ試していくことで、自然とプレイヤーに経験がたまるようになっていますし、そうして積み重ねた知識が、以後のゲームプレイでも役立つ形になっています。
状況にもよりますが、デモンズソウルに関しては基本的にトライ&エラーの連続で、同じ場所で様々なことを試すのに時間はそう必要ありません。

対して世界樹の迷宮では、ゲーム内で勝てない相手がいた場合、自分のパーティー編成に穴があると感じたときには、新しく仲間を育成しなくてはいけません。守備が弱いと感じたらそれに見合う仲間を、火力が不足していると感じたらそれに応じた仲間を作成して、レベルをあげなくてはいけない。
世界樹の迷宮3には、そういった育成を手助けする要素がいくつか盛り込まれているおかげで、この過程はさほど面倒なものではありませんが、それでも、場合によっては数時間はかかってしまうものです。
この準備段階、トレーディングカードゲームでいえば、目的のデッキを組むためのカードをお店で探している状態、モンスターハンターでいえば装備を作るために目的とは別の相手を倒している状態、プロ野球でいうなら戦力補強のトレード交渉をしている状態、に似ているでしょうか。

いざ育成を終え、実際にそのパーティが目的の敵を倒すに至るかどうか、というのは実際にやってみないと分かりません。もちろん、ある程度は頭の中で試行錯誤した上で「ここを補強すべき」と考えて育成していたわけですから、全くの無駄、ということは可能性として低いわけですが、何事もやってみなくては分からない。

自分はゲームにおいて「○○はダメだった。じゃあ××はどうだろう」と考えている状況が結構好きです。
これはなにも前述の世界樹の迷宮やデモンズソウルに限ったことではなく、レースゲームのコーナーの攻め方、恋愛シミュレーションにおける女の子の攻略の仕方、パズルゲームの連鎖の組み方、その全てにおいて共通しているドキドキでありワクワクです。

でも、世界樹の迷宮のように、その試行錯誤から導き出した結果が出るまでに数時間かかるとなると、やはり慎重にもなります。
ただ、一概に「時間がかからないから良い」「時間がかかりすぎるからダメだ」というわけでもないのですが。
試行錯誤も大切ですが、より重要なのは、その先にある達成感ですし、そこに至るまでの道程によって、その達成感すら大きく変わってしまうものだと思いますから。

ゲーム性の問題も絡んでくる以上、一概にデモンズソウルと世界樹の迷宮を比べることは出来ませんが(据え置き機と携帯機という性質の違いもありますし)ふたつのゲームをやっていて思うのは、試行錯誤のバランスにはいろいろあるのだな、ということ。

ある意味、ゲームをプレイしていて困る状況になればなるほど楽しくなってしまうわけですから、そういう意味ではマゾなんだなぁと思います。

ちなみにデモンズソウルも世界樹の迷宮3も面白いゲームです。もっともっと売れてしまえ。

使い捨てライターとスマートフォン
2010.4.7[Wed]
見出しの両方とも、今朝ニュースで見たものです。
使い捨てライターによる車両火災が増えてきたため、使い捨てライターの安全性を向上させたほうがよいのではないか、という話が出てきた、というものと、伸び悩んでいる携帯市場において続々と投入されるスマートフォンが活力となるか、というものでした。

使い捨てライターの火災に関しては、とくに子供が誤って火を付けてしまうケースが多いので、その点をどうにかすべき、という意見があがっているそうで、既に一部メーカーにおいては「安全装置付きのワンタッチライター」というものが開発、販売されていたりもします。
これは、単純にカチっと押し込むことは出来ず、いわゆる拳銃の安全装置などのように、意識しながら一手間加えることで初めて火が付くように改良されています。
自分が子供の頃、ワンタッチライターというのは(特に使い捨てライターの分野では)メジャーなものではなく、大抵は回転式のヤスリがついているものが主流でした。これだとただ力を加えるだけでは火がつくことはなく、ガスが漏れるだけなんですが、ワンタッチ式のものが主流になってからは、たとえば車のシートの間に落とした物が、シートを動かしたときに誤って付いてしまい……というような事故もあるのだとか。

私の父は煙草を吸うほうだったので、子供の頃、家にはライターがありましたが、その管理はしっかりしたもので普段は持ち歩くか手の届かない所にしまわれていましたし、煙草を吸っているときに手を伸ばそうものなら怒られたものでした。
全ての原因がそうである、とは言えませんが、使い捨てライターの火災が起こったとき(とくに車内に子供のみがいたケース)に関しては、そのライターの管理に関しても問題はあったのではないか、と思ってしまう次第です。

スマートフォンに関しては、いろいろと便利なソフトウェアを持ち歩けるようになることにより、人それ自体が空っぽになっていくような気がして少し怖いな、というお話。
これまた自分が子供の頃、家の電話番号は暗記していましたし、その番号はいまでも覚えています。今でもかろうじて自分の携帯の電話番号は覚えているのですが、新しい実家の電話番号や家族の携帯番号は、携帯電話のメモリーが覚えているのみで、自分の頭の中には情けないことですが入っていません。
携帯電話が普及しはじめてから未だ10年しか経っていないというのに、その機能の充実していく速度というのは恐るべきもので、今ではちょっとしたパソコンのかわりになる程度の性能があると感じていたのに、その上、もっと高性能な携帯電話が世に出回っていくとなると、それに振り回されずに生きていくことが自分には出来るのだろうか、と思ってしまうのです。
あまりにも携帯デバイスが便利になりすぎて、それがなくては生活できない、というような状況が……すでに一部では起きているような気もしますが、それがさらに進歩していくと「あまりにも便利すぎるから規制しよう」なんてなことになったりするんでしょうか。

最近、色々な方面でなんでもかんでも「規制すべき」という動きがあるのを見るにつけ、人間が生み出した物を取り扱っていて、いざ問題があるからそれを「規制する」というのは、違和感があるというか、妙な感じがすると言うか。

最終的には、スマートフォンであろうと使い捨てライターであろうと、使う側の問題になるのだろう、とは思うのですが。

危険なものだからそれ自体を安全にしよう、規制しよう、という理屈も分かりますが、それよりも大切なことは、危険なものだと理解したうえで、それを理解し、より安全に取り扱えるように注意すること、なのではないでしょうか。
風の谷のナウシカでいう、腐海の花のように、あれは毒出すし危険だから燃やそうぜ滅ぼそうぜ! ではなく、綺麗な水であれば綺麗に咲き誇る可能性を見つけ出そう、的な――――って、それはまた少し違うか。

いつの日にか「パラシュートだけで空から飛び降りるのは危険だからスカイダイビングは規制しよう」とか「火薬を大量に扱うなんて危険だから花火は規制しよう」ということになってしまうのではないかと、最近のニュースを見ていると思ってしまうのです。

勝手にライターに触れたら私を叱ってくれた父ですが、それに興味があると言えば、その取り扱い方を含め、いかにそれが危険であるかを教えてくれました。
私は父に感謝しています。

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