サイド・さつき 「出会い」

 先輩と出会ったのは、入学して間もない頃だった。
 その日はビデオ教材を見るために、初めて視聴覚室で授業を受けることになっていた。
 視聴覚室へ向かう途中、急にトイレへ行きたくなってしまい、照れ隠しで忘れ物をしたと友達に嘘をついた。
 一緒に戻ろうか、と言ってくれた友達に、平気だから、と言い残して別れたことを後悔したのが、それからほんの数分後。
「どこ、だっけ……」
 手洗いを済ませたわたしは、迷子になっていた。
 校舎は入り組んでいるわけじゃないけれど、それだけに似たような場所が多くて、焦りもあってますます迷ってしまう。
 気付けば授業は始まり、廊下はしんと静まりかえっていた。
 そんな状況で、見知らぬ教室に入っていって、視聴覚室はどこですか、なんて尋ねるには勇気がちょっと足りなくて。
 そういえば案内板があったはずだと、その存在を思い出したとき、わたしは泣き出す寸前だった。
 わたしは自分自身を、ちょっとドジだと思っている。
 いつだって肝心なところでポカをしてしまう。
 その理由はたぶん、見栄っ張りだからだ、と思う。
 子供の頃から、一人で出来ることは一人でやってきた。
 必要以上に頑張って無理をして、回りから見れば背伸びをしているように見えたかも知れない。
 でも、それでようやく一人前だと思っていた。
 比較対象は、いつも一緒だった幼なじみ。
 こっこ――木之下晃子――は、優しくて女の子らしい、いかにも男子が好ましいと感じるだろう容姿と性格をしていた。
 それを羨ましいと思ったことは、ない……と、思う。
 でも、幼なじみの存在は心強いと同時に厄介だ。
 いつも二人で居るのが当たり前だと、自分たちよりも回りのほうが思い込んでいたりするし。
「こっこなら、こんなミスしないだろうなぁ……」
 はぁ、と呟きながら溜め息を漏らす。
 学校内で迷子になるだなんて、聞いたことがない。
 とぼとぼと廊下を歩きながら、どうにか覚えていた案内板の前までやってくる。
 これで一安心、かと思いきや、そこには先客がいた。
 綺麗な長い髪に、ほうっと息が漏れる。
 先輩――制服のリボンの色で上級生だと分かった――は、案内板をじっと眺めていて、動く気配はない。
 やましいわけでもないんだし、並んで案内板を眺めればいいのに、わたしはそこで躊躇ってしまった。
 迷子の新入生が案内板を見たっていい。そうは思っても、その姿を見られるのが、なんだか恥ずかしかった。
 案内板の前に立つ先輩の横顔は、そんな気後れを感じさせるほど綺麗で――――気付けば、わたしは見とれていた。
(なにしてるんだろう……)
 じっと案内板を見つめている姿が気になったのもあるし、自分の知っている案内板がこれしかない、という理由も手伝って、わたしは物陰に隠れて、先輩の様子を窺った。
 けれど、それも一瞬のこと。
「……どうしたの?」
 気配に気付いて振り向いた先輩と、目があってしまった。
「あ、あの」
 いきなりのことで、見事にどもってしまう。
 そんなわたしを見て首を傾げた先輩は、一転、なにやら会得した顔で小さく微笑んだ。
「新入生、よね? 迷ったの?」
 その視線が、わたしの胸に向けられている。
 リボンを見ているんだ、と気がついたのは、自分も同じようにして目の前の相手を上級生だと判別したからだった。
「いえ、その……はい」
 否定しようとしたものの、そもそも図星だったので言い訳も思いつかなくて、小さく頷いた。
「そう。行き先はどこ? ……もしかして、視聴覚室?」
「は、はい」
「やっぱり……。あそこ、分かりにくいから」
 自分の勘が当たって嬉しいのか、くすりと笑う。
 話しかけてきた先輩は、柔らかさの中にしゃんとした空気をまとっていて、上級生という立場を抜きにしても緊張してしまう。
 いつまでも離れているのはおかしいと思って、案内板を見るふり……というか、実際に見ようと思って、先輩に近寄った。
「そもそも、この案内板が見づらいのよね。……前々から変えてほしいとは思っているんだけど」
 わたしに向けて、というよりも独り言のように呟いた先輩は、
「わたしも行く先は似たようなものだから。案内するわね」
 そう言って、にこっと笑った。
「でも」
「泣きそうな新入生を放っていくほど、冷たくはないつもりよ」
「えっ?」
 ぴしゃりと言い切られて、あわてて目元を拭う。
 確かに泣きそうになっていたけれど、そんな、涙だって出なかったし、第一、目だって赤くなってなんか――――、
「はい、どうぞ」
 言葉と共に、先輩が小さな鏡を差し出してくれる。
「あっ、ありがとうございます」
 お礼を言いながら、反射的に自分の顔を映した。
 けど、泣いた形跡なんてこれっぽっちもない。
 じっと鏡を見つめて、なんで、と考えたのも束の間、
「……心細かった?」
 かけられた声の優しさに、本当に涙が出そうになった。
「校内で迷うことなんて、おかしなことじゃないんだから」
「そんな、こと」
 ずばり言われて、思わず言葉に詰まる。
 返す言葉が思いつかないわたしに、
「ほら、あまり遅れても大変でしょう?」
 先輩は、またもやにこっと笑った。
 そんなふうに誰かに笑いかけられたのは、初めてだった。
「行きましょうか」
「……はい」
 それから、先輩の斜め後ろあたりを雛鳥のようにちょこちょこくっついて歩きつつ、ずっとずっと考えていた。
 名前を聞こう。
 お礼を言おう。
 けれど、心の中で繰り返すばかりで実行できなかった。
 そう言うときに限って、目的の場所は近く、経つ時は短い。
「ほら、あそこ。分かる?」
 先輩の指さした先に、視聴覚室と書かれたプレートが見える。
「はい。……ありがとうございました」
 頭を下げて、まずは感謝の言葉が言えたことに安堵する。
 よし、じゃあこのまま名前を、と思って顔を上げると、
「それじゃ、わたしはこれで」
 先輩が立ち去ろうとしているのが目に入り、
「あ、え……っと、お名前っ」
 咄嗟に呼び止めた。
 焦って変な台詞になってしまったことより、それで先輩が立ち止まってくれたことに、何よりもホッとする。
「名乗る者でもない、って言ったら……困る?」
 くすくすと、まるでわたしを試すような笑顔だった。
「だって、それじゃ……その、お礼が」
「お礼、って……」
 校舎内を少し道案内した程度でお礼なんて言われて、先輩がわずかに困惑の表情を浮かべる。
 逆の立場だったら、わたしも同じような顔をしたに違いない。
 そんな、ちょっと考えれば分かることも想像出来ないほど、そのときのわたしは一杯一杯だった。
「べつに、お礼を期待して案内したわけじゃないから」
「それは……」
 もっともだと、返す言葉なく思わず肩を落とした。
 そのときのわたしは、自分でも驚くほど落胆していたと思う。
 それが伝わったのか、
「……大丈夫よ。縁があれば、また会うこともあるから。そのときはまず、あなたの名前から教えてね」
 そう言ってにこっと笑い、今度こそ先輩は背を向けた。
 くるりと踵を返す動作に合わせて、ふわりと舞った長い髪が、ことさら強く印象に残る。
 髪を伸ばせば、あんなふうにしゃんと背筋を伸ばすことができるのかなと、生まれてからずっと伸ばした事のない自分の髪を指で梳きながら、わたしは黙って先輩の背中を見送った。
 結局、先輩に名前を伝えることが出来たのは、それからさらに数ヶ月経った後。
 伸ばし始めた髪は綺麗なストレートになることはなかったけれど、憧れを束ねるように、わたしはその髪をリボンで束ねた。