サイド・梨衣 「焦り」

   -1-

 生徒たちの間で文化祭の話題が出始めるようになった頃、わたしはひとつの感情を抱いて日々を過ごしていた。
 それを形容するなら、きっと焦りだろう。
 うちの学校は、文化祭が終わると生徒会長が変わる。
 実質、文化祭が生徒会長として最後の大仕事であり、同時に、文化祭の終了までに会長自身が後継候補を選ぶ、というのが通例になっていた。
 全員がなんらかしらの形で準備や運営に携わる行事の中で、その働きぶりなどから自分が引き継がせたいと思う生徒を探す。
 わたしも、そうして選ばれた。
 多少、先代会長にハメられた部分もあるのだけれど……今の役職を気に入っているから、結果として問題はない。
 いま問題があるとするならば、未だ後継者に白羽の矢を立てることが出来ないでいること。
 別に、生徒会長が後継を推薦しなくてはいけない、という決まりがあるわけじゃない――推薦枠はあるけど強制じゃない――から、いないのならば、それはそれとして別途立候補した生徒たちが票を取り合えばいいだけの話だ。
 それでも。
 出来ることなら、自分を選んでくれた先輩から引き継ぎ、守り、続けてきたものを自分の信頼できる相手に渡したかった。
 戸惑いながら引き継いだ、生徒会。
 半年以上も続ければ愛着もわいてくる、といったところか。
 もちろん、わたしが指名したからといって、その生徒が必ずしも引き継げるわけじゃない。
 推薦はあくまでも推薦でしかなく、生徒会長が選んだ候補者が投票で敗れるケースだって、当然ある。
「はぁ……」
 ひとつ溜め息をついて、生徒会室の長机につっぷしてみる。
 気の抜けた、だらしのない姿でしばらくぼんやりと過ごす。
 この時期はあれこれと内外のイベントが重なって、生徒会室は静かなものだった。
 生徒会役員が他にしたいこと、すべきことがある場合、そちらを優先するのが我が校生徒会の伝統らしい。
 よって、生徒会長はそういう用事を抱え込まない人物が適任とされていて――――以前のわたしも、そういうタイプだった。
 この役職につくまで特定の部活に所属するでもなく、わたしはわりと平凡な学校生活を過ごしてきた。
 自分が特別なにかに秀でている、と思ったことはない。
 ただ、自分を選んでくれた先代会長の恥になりたくはなかったから、相応の成果を残せるように気合いは入れた。
 結果、評判は上々で、自分自身も生徒会長として恥ずかしくない功績を残してこれたと自負している。
「……んー」
 ぐいっと伸びをすると、机の上に置かれた書類の山に手が当たって、ばさばさと紙の崩れる音がする。
 でも、気にせず、そのまま机に体を預けた姿勢で目を閉じた。
 ひんやりとした机の感触が、頬にあたって心地よい。
 こんなだらしのない格好、生徒会長・綾崎梨衣がしてはいけないのだろうけれど、生徒会室は密室だから気にしない。
 周囲が自分を優等生だと思っているのは知ってる。
 実際、何でもそつなくこなせるタイプ、というのがわたしの自己評価であり、そうなるよう、なれるように努力してきた。
 事実、わたしは真面目でいることが苦痛じゃない。
 正確には、優等生でいることのメリットを思えば、真面目な良い子でいることに、なんの抵抗もなかった。
 良いことをすれば褒められ、悪いことをすれば叱られる。
 それは当たり前のことで、それなら、褒められた方がいい、というのがわたしの基本だった。
 つまり、わたしは根っこの部分が悪い子なのだ。どうすることで自分の評価が上がるのか、というのを心得ている。
 もしかすると先代会長は、そんなわたしの本質を見透かしていたのかも知れず、そのもくろみ通り、わたしは良い生徒会長であろうとし……結果、わたしは優等生になってしまった。
「……ちょっと、違うか」
 自嘲気味に呟いて、それから携帯電話を取り出す。
 切っていた電源を入れ、データフォルダに入っている一枚の画像を画面上に取り出すと、それを見つめた。
 液晶画面には、本を読んでいる男子生徒の姿が写っている。
 目線は本に落ちたまま、こちらに気付いていない……のは、それが隠し撮りだからに他ならない。
 こっそりと切り取らせてもらった、彼の時間。
 わたしにとっては、秘匿の一枚。
「……」
 いつからか、彼のことを考えることが、わたしのスイッチを入れる切っ掛けとなっていた。
 携帯を持っていない手――――空いている左手の指先を唇で挟むと、それをちろっ、と舐める。
 彼を思いながら指先をくわえると、反射的に舐めてしまう。
 何故だかは分からないけれど、体はそんなふうに動くのが癖になっていて、止められないし、止めたくもなかった。
「ぁ……ん、っ……」
 声を出したっていい。
 誰かに聞かれる心配はない。
 生徒会室は、彼ほど大胆になることが出来ないわたしにとって、彼を真似るための用意できる唯一の空間。

 半年ほど前、わたしは彼の秘密を知ってしまった。

 それを見たわたしは、驚き、戸惑い、かつてないほど胸をどきどきとさせた挙げ句に、それを……真似た。
「……は、ぁ……っ」
 声がこぼれても、かまわずに指を動かし続ける。
 生徒会長・綾崎梨衣が、生徒会長という肩書きをもっとも忘れられる空間は、皮肉にも生徒会室の中だった。

   -2-

 自分で自分のことを、
「高嶺の花」
 なんて言うつもりはないけれど、その告白を受けるまで、わたしは一度も、人から「好きです」と言われたことはなかった。
 わたしと付き合いたい物好きなんてそうそういないだろう、なんて思っていたけれど、実のところは、告白したところで了承されるはずがない、と思われていたらしい。
 もっとも、それは後になって教えてもらったことであり――――その時のわたしは、告白された事実に面食らっていた。
 人影まばらな放課後の図書館で、
「名前は、藤野さつき、といいます。二年生です」
 しゃんと背筋を伸ばし、わたしの目をじっと見つめてくる少女を見つめ返しながら、懸命に記憶を検索する。
 その、ちょっとした沈黙から察したのか、
「入学したばかりの頃、視聴覚室に案内してもらいました」
 そういった彼女――――さつきの事を、思い出した。
「あのときの……」
 髪もずいぶんと伸びて、見た目の印象が変わっていたので、すぐに結びつけることが出来なかった。
 でも、あの泣き出しそうな顔は、今でも覚えている。
「あのときは、意地悪を言ってしまって……ごめんなさい」
「いいんです。迷子になっていたのは、本当だったし……それに、おかげで、出会うことが出来ましたから」
 真っ直ぐな眼差しに見つめられるうち、いつのまにか困惑は消えていた。
 もう一年以上前になるあの日、わたしは言った。

 ……大丈夫よ。縁があれば、また会うこともあるから。そのときはまず、あなたの名前から教えてね。

 彼女は、強い意志をもって、自ら縁を作ったのだ。
 待つのではなく、自分から動くことによって。
「……聞いても、いい?」
 どうして好きになったのか。
 なぜ、告白しようと思ったのか。
 その二つを尋ねると、彼女は淀みなく答えた。
「わたしは真剣なんです」
 継いで出てくる、その言葉。
「それは……分かってる。……だからこそ、ね?」
 彼女の気持ちには、曇りも偽りもない。
 だからこそ、その想いを受け止める事に不安が生まれた。
 告白を断る理由は、ひとつもない。
 女同士だから、という言葉は使いたくなかった。
 悩むことしばし、沈黙を否定と受け取ったのか、
「じゃあ……せめて、してください」
 少女の唇が、そんな言葉を紡ぐ。
 同時に目を閉じると、ほんのわずか、唇を差し出してくる。
 何を求めているのか分からないほど、鈍くはない。
 でも、
「それで納得できるの?」
 問い返したその言葉は、ひどく不躾な問いだったと思う。
 だけど、わたしがさつきから感じた想いは、一度きりのキスで納得できる程度のものじゃなかった。
 彼女が口にした、せめて、という言葉は、裏返せば、諦める代わりに口づけが欲しい、という意味だろう。

 それで、本当にいいの?

 キスをして、それで、より気持ちが募ってしまったら。

 あなたは、自分自身の言葉に苦しめられるのではないの?

 隠し撮りした写真を見ながら、自分を慰めて。
 それで、日々ふくらんでいく気持ちに悩まされる。

 そんなふうになりはしないの?
 キスの感触を思い出して、苦しんだりしないの?

 いつの間にか、彼女の立場に自分を重ねて自問してしまう。
「分かりません。分かりません、けど……」
 閉じていた目を開いて、もう一度、わたしを見つめる。
 初めて出会った日のように、その瞳は、あと少しで泣きそうな色をしていた。
「…………目、閉じて」
 そっと肩に手を置くと、さつきが再び目を閉じる。
 わたしにとっては、それがファーストキス。
 彼女の想いと等価になるものが、自分にはそれぐらいしかなかったから、わたしは迷わずに唇を重ねる。

 直後、わたしは本棚の陰に人の気配を感じた。

   -3-

 翌朝、下級生のクラスが並ぶ廊下を歩くわたしのポケットには、自分のものではない生徒手帳が入っていた。
 昨日、慌てて走り去った彼の忘れ物。
 わたしは今、それを利用しようとしている。

 彼を、自分の後継に推薦できないだろうか。

 取り立てて素行不良だという話は聞いたことがないし――学校で自慰はしているけれど――部活に入らず図書館で本を読むのは、時間を潰すだけのカモフラージュであることも知っている。
 会長として活動できる時間があり、成績も悪くはない。
 あとは実際にいくつかの仕事を頼んでみて、その手際から後を任せるのに不足ない人物であるかを見極めるだけだった。
 生徒手帳と彼の秘密を、そのための口実として使う。

 ほんとうに、それだけ?

 ざわ、と心に波が立つ。
 自分の本心を、自分が見透かしてくる。
 真面目な生徒会長を演じる自分の思いついた案を、もう一人の自分が、それだけじゃないくせに、と薄く笑った。

 かもしれない。
 なにか、期待しているのかもしれない。

 どちらにせよ――彼を生徒会室に招くこと自体には――どちらのわたしも、反対意見はない。
 たとえこの手段がズルいものだとしても。
 その結果として、彼にどう思われようとも。

 ずっと抱いていた、焦りは今も胸でくすぶっている。
 けれど今は、その原因がひとつではないと知っていた。
 生徒会長を辞める頃には、卒業まで間がない。
 この学校で生徒として過ごすことができるのも、残りわずか。
 悔いを残したまま、去りたくはなかった。

 まばらな人影に混じって、よく見知った後ろ姿を見つけて、わたしはあらためて生徒手帳を確認した。
 努めて冷静に。
 シナリオは、ちゃんと頭の中にあるのだから。

 まずは名前を呼ぶところから、わたしの作戦は始まる。