2009年02月の日記 |
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私の描く話、というのは「完全なフィクション」というものがあんまりありません。どこかしらに自分自身が経験した事が、あるときはほぼそのまま、あるときは形を変えて挿入されています。 例えば「レインタクト」の登場人物たち、それぞれの恋愛観が、自分が出会った女性の話してくれたことが大本になっていたりだとか。 ちなみに、少女達のさえずりのさつきが主人公に話す秘密のひとつも、自身のある経験が元になっていたりとかします。 事実は小説よりも奇なり、なんて言葉もありますが、わたしは今までの人生において、そのまま人に話せば「それはなんの妄想だ」と言われるような出来事をいくつか経験してきました。 でも、体験してきた本人にとっては紛れもない事実であり、現実なんですよね。 そして、それは誰にだってある。 自分が「別に当たり前だ」と感じていたことが、他人にとっては信じられない話だった、というのはわりとよくある事だと思います。 それは例えば「カレーの具にウインナーを入れるのが普通だ」と思っている人もいれば「納豆には砂糖をかけるのが一般的」だと信じている人もいる、というのと同じようなもんで。 ただ、自分が経験した事柄を「貴重」だと思うか「当たり前」だと思うかは、人それぞれによるんじゃないかな、とは思います。 人はどこかで「自分は普通だ」と思いたいのかもしれません。 でもその一方で「自分は特別だ」と思いたいのかもしれません。 でも、けっして「自分が出来るから」「普通」ということもないし「自分が出来ないから」「特別」ということもない、と思います。 大切なのは、たぶん「認められる」かどうか、であって。 |
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窓のない部屋に、テーブルがひとつあります。その上には、リンゴがひとつ、置いてあります。 この文章だけで何を考えるか、それは人それぞれだと思います。 リンゴの大きさはどのぐらいか、産地はどこか、そもそもリンゴはなんで置いてあるのか、なぜりんごなのか。 または、何故この部屋に窓がないのか、自分はどうしてこの部屋にいるのか、テーブルはどんな形、大きさなのか。 部屋にリンゴがある、ということだけでも、何を考えるかはそれぞれなのですから、まして映画や物語などであれば、それを見聞きした感想は十人十色ということに。 例えばキスをしている二人がいて、けれど、その二人の心の中が全く同じである可能性はどれぐらいでしょうか。 キスのその先を考えているかもしれないし、相手の温度や感触のことばかりを考えているかもしれないし、満たされぬ心で他の誰かを思っているかも知れない。 キスをしているという事実は事実のまま、けれど、キスをしている二人にとって、そのキスは全く同じではないかもしれない。 見る角度を変えれば、物語は何度でも楽しめる。 ひとつの物語には、登場する人の数だけ物語があり、それを見ているあなただけの物語にもなってしまう。 窓のない部屋のテーブルの上に置かれた、ひとつのリンゴ。 そのリンゴが突然、あなたに語りかけてくることだって、あるかもしれない。 |
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「あったらいいのに」と思っているもの、ありませんか? 「あったらいいのに」と思っているのにそれがない、という場合は、たぶん、 「なんらかの事情で存在しない(できない)」「昔はあったけど今は別の形になった」「本当にない」 という、このどれかにあてはまっていることが多いのじゃないかなぁと思います。 そしてもうひとつ 「そのうち現れる」 何年前だったか、結婚式などに出席するときなどに、ブランド物のバックなどを持っていきたいがお金がない、という女性が、通販のクーリングオフを悪用し、 購入→それを一度だけ使う→理由を作って返品する という事をしている、という話題を目にしました。 「そんな面倒かつ犯罪的な行為をしてまでブランド物を手にして他人の前に出たい、という人がいるなら、ブランド専門のレンタルサービスを作ればいいのに」と思ったのですが、つい先日テレビを眺めていたら、実際にそんなサービスが出来て、不況ということもあってか、結構繁盛しているそうです。 また、メイド喫茶が秋葉原にぽつぽつ出始めた頃「これだけメイドを打ち出したサービスが受け入れられるのであれば、メイド的なしゃべり方のモーニングコールサービスがあったらどうかなぁ」と思ったことがあったんですが、これもそれから数年後、本当にそういうサービスが運営されている、ということを知りました。 「あればいいのに」「あったらいいのに」と思ったことは、それを実現する労力や財源はともかく、同じ事を考えた人によって実現されるものなのかもしれません。 もちろん自分自身の手で実行してしまう、というのも大いにありだと思いますが、もしそれが完全犯罪のアイディアなんかだとしたら、それは実行せずに小説などにしてみるほうが、きっと幸せ。 |
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メールという物が一般的になり、自分の住所や本名を知らせなくとも、メールアドレスを知らせれば連絡が取り合えるようになってから、手紙を書く、という機会は明らかに減ってしまったように思います。 芸能人や作家など相手に、いわゆるファンレターを送るといった場合にも、昔はその方が所属している事務所に手紙を送る、というのが一般的でしたが、今は送りたい相手自身がブログやサイトを運営しているということも多く、手紙を使わなくてもよくなりました。 また、パソコンやプリンターの普及により、手書きで文章を書く、という状況そのものも、減ったのではないでしょうか。 最後に手紙を書いたのは、いつですか。 同人誌をよく購入、そして多少執筆などしていた頃(今から15年ほど前)は、いわゆる「文通」をよくしていました。毎日ポストを覗くのが楽しみで、色々あって生きることに自信をもてなくなっていた日々において、手紙は生きる糧であったと表現しても、そう大げさではなかったように思います。 多いときは、一度に20人以上の相手と文通をしていたかもしれません。 やがて各家庭にファックスが普及した後も、やはり文面を書くのは手書きで、自分の思っていること、感じていることを手書きで文章にしていく事そのものが大好きでした。 私の原点は、手紙にこそあるのではないだろうか、なんて、そんなことを考えたりもします。 やがて携帯電話にメール機能が搭載され、それがパソコンやインターネット共々普及していくにつれて、手紙で連絡を取り合うことはなくなり、メールで連絡を取り合う事が多くなり、手書きの手紙を書く機会は、だんだんと少なくなっていきました。 あなたは、あの人が書いた文字を見たことがありますか。 わたしの字は結構丸文字、というか、可愛い文字、と評されることが多く、手紙だけ見ると女性っぽい、といわれることが多々ありました。最近はこれでも直った方なのですが、一時期などは「女子高生と文通しているようだ」などという感想を貰ったことがあります。 私は、手紙を書くことも、手紙を読むことも、両方好きです。 メールメールで全ての文面が同じフォントな昨今、手書きの文字には、あの人だけが生み出せる形の連なりの向こう側に、文章の内容とはまた違った意味での気持ちが見えてくる、感じられる、そんな気がします。 |
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