2010年02月の日記 |
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いきなりなんの駄洒落かといえば、これはニンテンドーDS「トモダチコレクション」の島の名前です。 気になっていたソフトではあるんですが、有名人を勝手に登録しても仕方がないし、さりとてあまり友人が多い方でもないし、どちらにせよ実在の人物を勝手に登録するのもいささか気が引けてしまう、と思って手が出せなかった本作。 それなら、自分の創作のなかに出てきた人物たちを住まわせる島にしてしまえばいいのではないだろうか。 おお、なんというクロスオーバー。 てなことで、この前ふらっと買ってきて、空いた時間にぽちぽちと遊んでいます。 ちなみに自分の場合、自らの作品に登場させたキャラに関しては、細かい場合は誕生日と血液型、大まかな場合でも生まれた月(もしくは星座)を決めているケースがほとんどなので、さして迷うことなくキャラを作成して島に放り込んでいます。 自分自身のそっくりさん(これは最初に作る、島の中心人物のようなもの)の他に、 ・「少女達のさえずり」から主人公+ヒロインズの計4名 ・「レインタクト」から少女たち7名 ・今後発表できる機会があればいいな、と思っている企画や、かつての作品から数名、 というような形で、実在の人達にご迷惑をかけることもなく、ちまちまと島民を増やしています。 やってみるとこれがわりと楽しいもので、別に仕組んだわけでもないのに「少女達のさえずり」面子の、晃子と信也がすぐに恋人関係になる一方でさつきと梨衣が親友になったり、 「レインタクト」面子の里奈と結花が互いを気にするものの、なかなか友達になれなかったり、唯の部屋に芹菜が一晩遊びにいったっきり帰ってこなかったりしました。 そんな一方で、作品の垣根を越えた交流もあったりして「この二人は意外と仲良くなりそうな気がする」とか「この面子だと、喧嘩とかしそうだな」なんてなこともあったりして。 「トモダチコレクション」というよりは「脳内コレクション」的なほうがしっくりきそうな遊び方ではありますが、これはこれでありだなぁ、なんて思いながら、島民の悩みを解決する日々です。 |
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自分の思っている事を相手に伝えたいけれど、その事を言えば相手がどういう反応をするのか予想がついている時、それを言うことを躊躇うものだと思います。 それは大抵、相手が不機嫌になる、もしくは、落ち込むと分かっている場合で、つまり自分の伝えたい内容が、相手にとっては言われたくないことであると分かっている状態が多いのではないでしょうか。 「言われなくても分かってる」 なんて切り返しは案外耳にするものですが、これが実際問題「本当に分かっている」のであれば、他人からそれについてとやかく言われることは苦痛です。 例えば、太っている事を気にしている人間に対して「もう少し痩せたら?」とか「食べ過ぎなんじゃない?」という台詞を言うことは、互いの関係などによっては「言われなくても分かってる」という台詞を引き出し、雰囲気をぎこちなくしてしまうかもしれません。 「あなたの為を思って言ってるんだから」 この言葉も耳にすることが多いような気がしますが、本当に相手の心を気遣うのであれば、相手が気にしていると分かっている事柄について、あえて言う事が本当に思いやりとなるのかどうか。 もし、自分が逆の立場であったなら、 「あなたの為を思って言ってるんだから」 という台詞に、かえって苛立ちを覚えたりはしないだろうか。 人が生きていく上で、誰の心も傷つけることなく過ごしていくことは限りなく不可能に近いだろうとは思いますが、それでも、自らの言葉が相手に不快な思いをさせると分かっていてもなお、それでも伝えるべきことなのかどうか。 いま、その言葉で、相手の心に踏み込むべきかどうか。 言葉にしなければ伝わらないといいますが、伝えたい事が相手の気にしている事柄である場合には、ただ言葉にして伝えるだけが方法ではないと思う事も多いのです。 もちろん、その方法は相手や状況によりけりなのですが。 |
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焦っている時の1分と、心にゆとりのある時の1分では、同じ1分でも価値が違うのかどうか。 「焦っている=時間が惜しいのであれば1分は貴重だから、その分価値も増す」 「心にゆとりがあればこそ、1分をより味わい楽しむことが出来る」 どちらの意見も、なるほど、と思ってしまいますが、ではこれを一時間、一日、一週間、一ヶ月、一年、というふうにとらえていった場合はどうなるでしょうか。 そもそも、焦り、ゆとり、というものは、感情であって、時間というものが誰にとっても等価値であるとするなら、1分そのものの価値は、焦っていようがゆとりがあろうが、変わらないのかもしれません。 昨今、勿体ないという言葉が少し流行ったりもしましたが、過ぎゆく時間を惜しむあまり、逆に時間に追われてしまうケースなども(自分の場合はとくに)あったりなどします。 時間を上手く使えるようになりたいと、よく、考えてしまいます。 |
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どれほど、そのものが古くから「存在していた」としても、知らず出会わずに生きていけば、ある意味、それは「存在していない」ことになってしまうのではないでしょうか。 良いものであればこそ、長く大切にされてきたのか。 それとも、長く大切にされてきたから、良いものだと思うのか。 それは何とも言えませんが、そのものを知らなかった人にとっては、知った瞬間こそが、紛れもないはじまりなのだと思うのです。 「こんなに素敵な作品があったんだ」とか「こんなに美味しい食べ物があったんだ」と思うことは、誰にでもあると思います。 そして同時に、その喜びを純粋に誰かに伝えたくて「こんなものがあったんだけど」と話したら「知ってるよ。知らなかったんだ」と言われたことも、おそらくあるのではないでしょうか。 世の中は情報に溢れていて、昔に比べれば随分と「調べる」ことが簡単になってしまいました。 気になることがあったとしても、些細な手がかりやとっかかりから、その正体にたどりつくことが、そう難しいことではなくなってしまったような気がします。 逆に言えば、なにか気にしなければ、なにかとっかかりがなければ、人はそれをわりと調べないものだ、という事にもなるような気がします。 最近、なにかで試行錯誤、しましたか? 人の苦労話をどれほど熱心に聞いても、自分が苦労したわけではありません。百聞は一見にしかず、という言葉はまさにその通りだなと、思います。 と、まあ、なんとなくそれっぽい事を書いてみましたが、通販番組「ショップチャンネル」を見ていて思うのは、世の中にはまだまだ自分の知らないものが数多あるのだということと、それを知ること自体に、自分が結構な喜びを見いだしていること。 商品開発者の語る、苦労や努力、そして自らが生み出した商品に対する愛情を知ってしまうと、それがどんなに優れているのだろうなと考えて、つい、注文をしてしまったものが、いくつか。 世の中にはまだまだ、知らないものとの出会いが多そうです。 |
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