2004年09月の日記

■ ふとした
2004.09.25
人はふとした切っ掛けで人を好きになると思っているのですけど、もしもそこから恋愛が始まるのなら、その人をどこまで知っている状態がいいのかなぁ、なんて考えることがありました。
好きな人には好きになって貰いたいというのが自然な感情だと思うので(ときに天の邪鬼なひともいますが)時に自分を飾ってしまったりするけれど、少なからず自分を「偽る」(あえてこんな表現をしますけれど)ということは、それなりに自分に負担をかけてしまうわけです。
それが、本来の自分と重なってひとつになってしまう場合もあるのですが。でも、慣れないことをするとボロはでるし、メッキをはがれないように取り扱うにはとても神経をつかいますから。

人の好みというのは分からないもので、自分が想定している相手の好みというのはあまりアテになりません。その相手から直接聞き出したとしても、相手が自分自身のことを完全に理解できている、という保証もないのですから。
自分が昔思い描いていた理想の異性と、今(もしくは昔でも)つきあい始めた人とは、似ていたか、と言われると「んー」と考えてしまう人って多いと思うのです。

自分らしさを出すことが出来る相手というのは、一緒にいて楽しいもので、それはとても大切な要素だと思います。
詩人のような人が好きだからという相手のために、普段はお笑いが好きなのに突然詩集を読みまくって……まあ、それで詩集を気に入ってしまえばそれはそれで新しい自分とこんにちは、というわけなんですが、詩があわないのに無理する必要はなくて。
むしろお笑いの良さを教えてしまえ、とか思うのが私。

好きな異性のタイプはきっと「自分らしさを引き出してくれる人」

今まで真面目だと思っていた人が、急にふざけたメールをよこしたり、今まで明るいと思っていた人が、急に落ち込んでいる場面を見たら、もしかしたらそれこそが、その人の本質かもしれないと思って接してみたら、もしかすると、その人とより深いお付き合いが出来るかも知れません。

■ 落ち込み
2004.09.18
自分が落ち込んでいるのはどうでもいいくせに、周りの人が落ち込んでいるのを見るとなんかこう落ち着かなくて、元気出して欲しいと思っていろいろ世話を焼いたりくだらないことをしてしまいます。

落ち込んでいるときにはほったらかしておいてほしい人、かまって欲しい人、いつも通りでいて欲しい人、とまぁ本当色々いるようですが、自分はそれでいくといつも通り、かもしれません。
落ち込んでいるときの方が、その人の本当の優しさに気が付くような気がして。

自分の感情がどれほど豊かで、それほどその起伏が激しいのかなんて、実際のところ自分自身じゃよくわかりませんけど、でも、自分の笑顔を見て喜んでくれる人が一人でもいる限り、笑えるような気がします。

自分のため、人のため。
自分のために作った何かを見て、誰かが褒めてくれたら嬉しいし、誰かのために作った何かを見て、その相手が喜んでくれたら嬉しい。
幸せなんてそんなもので。

近所に激安スーパーが出来て買い物が楽しくなったことで嬉しくなってしまう私にとっては、どんなささいなことでも喜びです。

■ 妥協のライン
2004.09.10
本当に出来た人、いってみれば神様みたいな人や、不満のない問題というのはまずほとんどいないわけで、どんなに自分に理想があってたとしても、実際問題、どこかでそれを妥協して現実と向き合っていくことが多いです。お仕事でも、人間関係でも。
妥協=我慢、というわけでもないですが、こと恋愛に関して、どこまで相手に歩み寄っていけるか、というのは大切なことだなぁ、とか思うわけです。

たとえば自分の好きな食べ物を相手が見るのも嫌だったりとか、自分は動物大好きなのに相手が大嫌いとか、煙草の煙は苦手なのに相手がヘビースモーカーだったりとか。
友達関係なら、そういった部分には不満があったとしても、あまり問題はありません。よほどひねくれた性格でない限り、お互いがお互いの苦手な部分を分かっているのなら、わざわざそれを持ち出してこようという人はいません。
でも、恋人となっていくと話は変わってしまう。
なにしろ一緒にいる時間、お互いの時間が交差する期間というのが、どんどんと増えていく中で「見せないように」していけるものというのは本当に限られてしまいます。

恋人になおしてもらいたい部分、これさえなければ最高なのに、なんて思うところはどこかにきっとあるわけで(ない人ももちろんいますけど)その妥協できるラインをきちんともっている人は、あまり恋人と喧嘩をしないような気がします。
恋愛って自分を活かすものであって、殺すものではないはずで、嫌われたくないから我慢をしていたら、いつか反動がきてしまいます。そうすれば、おのずから終わりが来てしまうわけで。

別れるというのは、恋愛において選択肢のひとつかもしれませんが、それを常に考えているのは恋愛じゃないのかもしれません。
別れることを前提にして付き合っていたら、それは楽かもしれないけれど楽しい恋愛になるのは難しい。
相手と本当に等しい付き合いなら、別れるという切り札を用意しなくてもきっと大丈夫なはずだから。

たった一言で世界は変えられないかもしれないけれど、たった一言で恋人との関係は変わっていくはず。
自分を押し殺す前に、心の声を伝えたい。

■ 手紙
2004.09.04
ずっとばたばたとしていましたが、ようやく時間を作っていけそうなので更新再開です。実家に戻ったりしていたのですが、そのときに大学ノート数冊分あるネタ帳を(ようやく)回収することが出来たので、今後これを色々と活かすことが出来れば、新しい話も生み出していけるかも知れません。何はともあれキーを回さないとエンジンはかからないわけでして。

実家に戻ったとき、荷物の整理(実家を取り壊すので、処分する物と残す物の選別)をしていたのですが、その中で出てきたのが大量の手紙。十代の頃にはネットやメールもありませんでしたから(あるにはあったのですが、手軽と呼べる物ではなかった)遠距離の人とのやりとりは、基本的に手紙と、そしてファックスでした。ファックスの容姿は感熱紙だった為に、十年ほど前のそれはもうほとんど色あせ……というか、文字がかすれて読めなくなっていましたが、手紙の方は健在。当時付き合っていた人、仲の良かった相手、男女問わず、かなりの量の手紙が出てきました。一時期各地の人と文通をしていて(切っ掛けは様々)手紙がかなりの量ありました。
手紙となると、メールとは違って自分が送った、いわば「送信分」は手元に残っているはずもなく、あるのはもらった「受信分」だけ。それでも、それを読むと当時の記憶がなんとなく蘇ってきます。
さっきも書きましたがそのほとんどがだいたい8年から10年ぐらい前のもの。ある返事には「○○さん(本名)って大人っぽいですよね」なんて書かれてあって、そういえば当時は(いま思い出せば)子供っぽかったくせに妙に大人ぶっていたところがあったなぁ、とか思い出しました。
メールだとそんなことはあまり考えないのに、手紙だとそんなことを思うのは、やはり手書きだからなのかなぁ、なんて思いますが、それ以上にやはり「便せん」という物が、記憶を刺激しているのではないかと思います。
ある人はいつも無印良品の質素な物。ある人はいつも花の絵がある物。ある人は必ずペンギンが描かれている物。その便せんを見るだけで、それが誰であるか分かる手紙たち。もちろん、その筆跡ひとつだけでもその人のこと、そしてその人との思い出を思い出すことが出来ます。
これはやっぱり、だれでも同じ文字になってしまうメールでは味わえない感覚で。文字の形や大きさ、ペンの色や便せんの趣味からも、出会ったことのないその人のことを想ったものでした。

封を開ける感覚。閉じてある便せんを広げるドキドキとした気持ち。書き出しから順番に目を通していく気持ち。
それはメールでは感じることの出来ない、忘れていた心地。

10年前の手紙には、私が知っていた、私が交流していた人たちが、10年前の自分に向けてくれた言葉や想いがつづられていました。呼び掛けるように書いてある私の名前も、それは10年前の自分に。

ああ、ある意味ではタイムカプセルのようなものなんだな。

そんなことを想いながら、その夜はふけていきました。

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